危険な快楽/原田



※「食べられるための支度」と同ヒロインですが、読まなくても大丈夫です。


ホテルの客室清掃というのは、手荒れにとにかく苦しむものだ。
風呂やシンクを掃除すれば水に触れるし、使う洗剤も業務用で強力なものが多い。
シーツを整える時も、布と皮膚が擦れて傷つきやすい。
夏場はまだいいが問題は冬で、空気が乾燥しやすいものだから、とにかく手が割れる割れる。
神経質なスタッフは水に触れる度、シーツを交換する度に一々ハンドクリームで手入れをしているらしいが、少しでも早く仕事を終わらせたい彼女はそんなことをしている暇はないと考えているし、そもそもあのべたつく感じがどうにも苦手だ。
そういうわけで、何の手入れもせず放っておいた手は、とにかく酷い有様だった。
爪は強度を失って爪切りを使わずとも自然に折れていくし、指の皮は剥け、手の至る所がひび割れあかぎれて、血まで出るようになった。
それでも彼女は無頓着で、たいして気にも留めなかった。水に濡れると少し染みて痛いけれど、我慢できるから別にいいか、とのんびりしたものだ。

「おい」

ぶっきらぼうな声に彼女は枕をカバーに入れる作業を止め、顔を上げた。

「何でしょう、原田さん」

軽く首を傾げそう聞いてみたが、ベッド横の椅子にふんぞり返る彼は何がそんなに不満なのか不機嫌そうに眉間に皺を寄せたまま黙りこくっている。
彼は時折このホテルに数泊滞在しに来る。その度(そんな制度はないというのに)清掃員に彼女を指名してくる。基本的に清掃員が入るときには客は外出するものだが、彼は面倒だとその場に居座って、新聞を読んだり、ただただ掃除をする彼女を眺めていたりした。
数度目の清掃で、唐突に抱かれた。それ以来、彼女が部屋を訪れる度に行為に及ぶのがお決まりになった。
恋人というわけではない。連絡先も未だ知らない。ただホテルで会った時だけセックスをする、シンプルな関係だ。

「あの……」

彼が何も言わないので再度声を掛けると、彼はスーツのポケットから何かを取り出しこちらに放り投げた。小さな丸いケースに入ったそれはころころと、まだシーツを掛けていないベッドの上を転がり、中途半端にカバーを掛けられた枕に当たって止まった。ケースの上には、白い花を咲かせた植物のイラストが描かれている。

「……ハンドクリームですか?」
「塗れ」
「え」

どうしてですか、とか、クリームを塗るのがあまり好きではないだとか言ってしまうと面倒くさいことになりそうなので、彼女は何が何だかわからないまま、とりあえず白い小さなケースを手に取った。

「ん」
「何や」
「開かない、です」

手荒れのせいか指が滑るのだ。原田がわざとらしく大きなため息をつくのが聞こえた。
彼は椅子から立ち上がり、こちらに近付いてくると彼女の手からケースを奪い取った。ただでさえ小さなプラスチックのケースは、彼の手の中ではオモチャみたいに見える、と思っている間に、蓋が開けられた。
ケースの中の白いクリームを彼は豪快な程の量指で掬い取ると、彼女の手を掴み取り、塗りたくり始める。
彼女はどうすることもできず、ただ子供のようにされるがままになっていた。白いクリームは彼女の手の上で透明に変わり、甘い香りが立ち上っていく。どこかエキゾチックな香りだ。何の香りなのかとケースに目をやると、チューベローズの香り、と書いてある。あの白い花の名前なのだろう。

「……わざわざ買ってきてくださったんですか」
「……」
「私のために?」
「酷い手やな」

彼は答えずに、彼女の手の甲を軽く抓った。彼女は少し笑った。

「……ハンドクリームって、べたべたするんであまり好きではなかったんですけど」

彼の手に包まれている自分の小さな荒れた手を見、彼女はぽつりとつぶやいた。

「原田さんが塗ってくださるなら、嫌ではないかも」
「毎回こんな事するか阿呆」

原田は心底嫌そうな顔をしてみせた。

「ありがとうございます」

言いながら、自然と彼女の視線は二人の手に釘付けになっている。チューベローズの濃い香りに包まれ、べたつきぬらぬらと部屋の照明を照り返しながら絡み合う手が、酷くいやらしいものに思えてきたからだ。
それを悟ってか、彼が鼻で笑った。と、急にぐいと腕を引かれ、ベッドに倒れこむ。
その上に彼が覆いかぶさり、クリーム塗れの手で彼女の首筋から胸元をすっとなぞった。透明な筋が、白い肌に浮かび上がる。頭を持ち上げそれを見、(ナメクジが這ったみたい)と彼女は思った。

「お前の為やない」

ささくれた手で触られるのが不愉快なだけや。
べたついた指が、彼女のブラウスのボタンを外し始める。彼女はふ、と鼻で笑った。視界の隅にほったらかしの枕が見える。しばらくは半分カバーを掛けられた情けない恰好のままで我慢してもらうしかなさそうだ。

「そう言っていただけると却って気が楽です」

プレゼントを贈りあうような関係でなくていい。互いを思いやるような優しさもいらない。
ホテルの一室で会う、それだけの関係が心地良いのだ。
ブラウスの最後のボタンが外されたのがわかる。眩暈がしそうなチューベローズの香りの中で、彼女はそっと目を閉じた。







ハンドクリームをテーマに二時間で書いてみました。







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