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【雨の日はジムノペディ】


 サアア――――と、とぎれることのない音をたてて灰色の雨が降っている。
 十二月の曇天は、空に蓋をするように重く暗く、いつまでもそこに居座りそうな気配があった。
 僕は公園の四阿の中から、それを鬱々とした気持ちで見上げていた。

 勤務先である庁舎のすぐそばには、広大な敷地を誇る都立公園がある。花壇やイチョウ並木だけでなく、音楽堂に結婚式場まで擁する園内には四季折々の花が植えられ、豊富な緑とともにオフィス街の憩いの場となっている。昼休みの時間ともなれば、ランチ片手の女性たちや、デスクワークで凝り固まった体をほぐそうとやってくる男性の一団を目にするのも珍しくない。
 かくいう僕も徒歩圏内での使いを終え庁舎へ戻る道すがら、少し寄り道したい気分になってこの公園の中へ入った。だが運の悪いことに幾分もいかないうちに空にあやしい雲がかかりはじめ、まずいと思ったときにはもう大粒の雨がグレーのスーツの肩口に濃い染みを作ってくれていた。
 あわてて雨宿りできそうな場所を探して周囲を見渡した僕は、樹々に隠れるようにして建つこの四阿を見つけて飛びこんだ。……が、そこには思いもよらぬ先客がいた。
「赤井……」
 男は暗がりに身をひそめるようにして座っていた。
 はじめ影の中に緑色の瞳だけが浮いているように見えて、僕は一瞬身をすくめた。だんだんと目が慣れてくると、その瞳のまわりに輪郭が現れ、男の全容が見てとれるようになった。相も変わらずの黒づくめ姿は、雨に濡れて少し湿っぽくなっていた。
 赤井も突然の僕の登場に驚いたようだった。ぱちぱちと目を瞬かせ、珍しく動転しているように見えた。

「降谷くん……。きみも雨宿りか?」
「ええ、まあ……。あなたもですか」
「日本の雨は冷えるからな」
 ふと口許をゆるめた男の比較するような物言いに、おそらく幼少期をすごした国の雨でも思い出しているのだろうと思った。赤井が英国育ちだということは本人から聞いていた。もちろん、経歴調査書でも確認済みだ。
「この国では傘を持ったほうがいいですよ」
 当然の忠告として言ったつもりが、くつりと笑われた。
「きみもな」
 くしゃりと崩れた相貌に、小刻みに揺れる肩。
 顔が火のついたように熱くなる。うるさい、と言いかえそうとしておかしなことに声が出なかった。かわりに逃げるように背をむけた。
 そして、冒頭に至っている。

 僕はうつむきたくなくて顔をあげた。雨の具合を確かめてでもいるように。そのうち、雨樋をつたって落ちる雫を馬鹿馬鹿しいくらい真剣に見つめている自分に気がついた。そうでもしなければ、背後の男が気になって仕方がない。

「そんな濡れそうなところにいないで、こっちに座ったらどうだ?」
 せっかく頭から追い出そうとしていたのに、赤井が声をかけてきた。
「いえ、結構です」
 それに対して、僕の返事は固い。返答に気を使うほどの余裕がない。セメントでガチガチに固めたような声音は、そのまま僕の心情だった。

 いつからこんなふうになってしまったのか、はっきりとは思い出せない。ただ、長年追っていた組織を破滅させて心の重しがすこし取れて、けれどその重さこそが僕を奮い立たせていたものでもあったから、それがなくなったことでわずかによろめきそうになっていたところをこの男に支えられた。
 本人にはそんな自覚はないだろう。そういうところがむかつく男だ。
 僕がよろめいたところに、たまたま隣に立っていたから肩が触れて一時の支えになっただけ。……そんなふうにだって、思っているかどうか。
 だけど僕には、あのときの肩の熱が鮮烈だった。
 寄りかかりたい、触れていたい。そう思っている自分に気がついたときには、背筋が凍りそうな恐怖を覚えた。
 こんなのは僕じゃない。まして、こんな感情を抱く相手が、あの赤井秀一だなんて。

 一生相容れないと思っていたはずの男に、強く惹かれている。
 それは僕にとってあまりに青天の霹靂で、ただ恐ろしいばかりだった。
 けれどそれより恐ろしいことがあった。なんとあの赤井秀一にも同じ青天の霹靂が訪れたらしいのだ。しかもこの男はそれを受け入れている。僕が必死になって蓋をしようとしている感情を、赤井はむしろ楽しんでいるように見えた。それが僕には恐ろしかった。

 僕は変化を望んではいなかった。
 たとえ赤井秀一に特別な感情を抱いていたとしても、それは一時のこと。しばらく離れて冷静になれば気持ちも薄れて、いずれは勘違いだったと思うようになる。僕自身がそうなることを望んでいた。
 それなのに、この男が無遠慮に踏み込んでくるせいで重たかったはずの蓋はいま、泣きたくなるほど頼りないもの成り下がってしまっている。
 僕は無意識のうちに自分を守るように腕を体に回していた。

「そこは冷えるだろう」
 するとすかさず赤井から声がかかる。
「雨があがったらすぐに出るつもりなのでお構いなく」
 普段は無神経なくせして、どうしてこんなときばかり目ざといんだか。
 ちらりと盗み見た赤井の唇からは白い息がもれていた。それだけで男の体温の高さを想像してしまう。
「この雨は長いと思うぞ」
「……大丈夫です」
 なにが『大丈夫』なのか、自分でもよくわからなかった。でもそうでも言ってごまかしておかなければ、流されて隣に座るなんてことになりそうだった。もしそうなったら嫌でもその体温を感じてしまう。雨に濡れたレザージャケットの甘い匂いはきっと僕をおかしくする。

 会話がなくなっても、赤井は僕のほうを見ていた。背中にじっと視線を感じる。声をかけられるのも嫌だったけれど、なにも言われずただ見られているのも気まずい。
 気まずさの中に、ほんの少し期待の色が感じられるのも僕を落ち着かなくさせる原因だった。それは僕のものでもあり、赤井のものでもある。僕らは互いの気持ちを知っている。それはそうでないときと比べて、圧倒的にふたりの間をぎこちなくさせた。
 いまの関係がコップのふちギリギリまで入った水のようだと、あとほんのわずかな一滴でもあれば、すべてが変わってしまうのだと僕らは知っていた。


「雨がやんだら……」
 唐突に赤井が言った。
「コーヒーでも、飲みにいかないか。きみが良ければでいいんだ」
 僕の聞き間違いでなければそう言われたと思う。なにせ赤井の声は呟くように小さく、おまけに転がるように早口だった。そのらしくない物言いに、思わず僕は振り返ってしまった。
「え?」
 無意識にこぼれた声に、しまった、と思った。まるでもう一度言ってほしいとねだるような響きになってしまった。
 肩を落としているように見えた赤井が、ぱっと顔をあげた。
「雨があがったら、俺と、コーヒーを飲みに行かないか。近くによさそうな店を見つけたんだ」
 今度はしっかりと、聞き逃しようがないほどはっきりとそう言われた。さっきとは違い、「きみが良ければ」とは続かない。
「ど、どんな店なんですか?」
 なにか返事をしなければと焦って、自分でもわけがわからず口走っていた。まっすぐに見上げてくる瞳から目がそらせなくて頭がまっしろになる。
 僕の馬鹿げた質問に、赤井は嬉しそうにほころんだ。

「静かで落ち着けそうな店なんだ。あたたかみのある赤茶の煉瓦壁で、窓をおおうように木がたっている。たしか、店名がクラシックの曲名なんだ。有名なピアノ曲の。雨で冷えた体をあたためる必要があるとは思わないか?」
 正直いま、背中に汗でもかきそうなほど体は熱い。それでもなぜか僕は、情景反射的に手で腕をさすっていた。その様子を見て、赤井がますます目尻をゆるめる。
「冷えただろう。熱いコーヒーでも飲もう。カフェオレでもいいな」
「あなた、カフェオレなんて飲むんですか?」
 意外に思って尋ねると、赤井のほうこそ驚いたように目を開いた。
「飲むさ。砂糖もいれるぞ」
「へぇ、ブラックコーヒーしか飲まないのかと」
「糖分は大事だからな。それに支局のコーヒーは砂糖とミルクなしでは飲めたもんじゃない」
「支局って、FBIの……? ならあのドラマで言ってたことは本当なのか……」
「ドラマ?」
「あっ、いえ」

 僕は以前観たFBI捜査官が主役のドラマに、そんなシーンがあったことを説明した。捜査員たちはオフィスのコーヒーにいつも文句を言っていて、コップにはぞっとする量の砂糖を流しこんでいた。
 すると赤井は「もしかしてあれか?」とドラマのタイトルを言い当てた。
「あれは引退した局員が監修に参加したらしいと聞いたことがある。なるほど、そんなところまで監修したのか」
 一瞬なつかしむように遠い目をしたあと、赤井はふたたび僕に視線を戻した。
「きみもドラマを観るんだな」
「ええ、まあ、流行を把握するためにさわりくらいは」
 さりげなさを装って言ったが、嘘だった。本当はどっぷりハマってしまって、忙しい中必死に時間をつくって観た。見始めた動機は嘘ではないけれど、「さわりくらい」でもない。シーズン1から12まで、もれなく観ている。なんとなくそれを赤井に知られるのは嫌で嘘をついた。

「俺たちは、お互いに知らないことが多いみたいだ」
「まあ、そうですね」
「俺はきみがカフェでなにを注文するのか知りたい」
 その言葉に、誘われていたことを思いだす。
「べつにそんなこと知ったって、どうしようもないでしょう」
 ささやかな僕の抵抗を、赤井は「そんなことはないさ」とあっさりと、しかし有無を言わせぬ語気でもって封じた。
「とても興味深い」
 ベンチに座ったまま、上目遣いにこちらを見ている赤井の目は鋭い。まるで頭の中を見透かそうとしているようだった。その視線から逃れたくて、僕はまた赤井に背をむけた。
「まだ行くとは言ってませんから」
 赤井は「そうか」とだけ言って、それ以上は誘ってこなかった。ただ、ひとり言にしては大きすぎるボリュームで「雨がやみそうだ」と言った。

 見上げれば四阿の屋根の向こう側、濃い灰色の空の一部がうっすらと明るくなっていた。ちいさな雲の切れ間から光が差している。切れ間は見えない風に流されるようにして、ぐんぐんと近づいてくる。
 雨がやむ。それはつまり、ここにいる理由がなくなるということだ。
 まだ待ってほしい。まだやまないで。せめてもう少しだけ迷う時間を。
 雲にむかって無意味に祈る。自分の中にもう答えを持っていると知りながら、まだ僕は迷いたいと思っている。なにに迷っているのかも、もうわからなくなりながらそれでも迷うのは、これが僕にとって最後にして唯一の抵抗だとわかっているから。
 この一線を越えてしまったら、あとには戻れない。

 雲は無情にもどんどん風に押し流されている。晴れ間はもうすぐそこだ。
 四阿の屋根を叩いていた音がやむ。靴先に陽光が差した瞬間、僕はふとコーヒーの香りを嗅いだ気がした。





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