※錦アン小話(1/5 ※微妙に2に続いてる)
「アンリ君、俺、もう、我慢できない」
「はあ」
決死の覚悟をもって告げたはずのその言葉は、まるで息が抜けたような相槌に迎えられ、瞬時に撃ち落とされる。
「まだ早いのに珍しいですね。じゃあ、もう帰りま」
撃ち落としたようなつもりは全くないであろう、澄んだ青い瞳を眇めつつ小首を傾げる恋人の仕草は思わず頬が緩んでしまいそうになるくらいにかわいらしかったが、今夜こそは負けるつもりはなかった。立ち上がろうとしたアンリの細い手首を繋ぎとめるように掴むと、遮られたことに驚いたのか、目を丸くしてアンリは錦田を見返した。
「なんですか」
ひとまず浮かしかけた腰を元の位置に戻しながら、アンリはやはり不思議そうにじっと錦田を見つめる。
「あ、いや……」
あまりに無垢な光に思わずたじろいでしまう。しかし、決めたはずの覚悟を無駄にしないため、錦田は一度ごくりと大きく唾を呑み込んで、口を開いた。
「アンリ君、もしかして、俺とその……そういうことするの、いや?」
「そういうこと?」
錦田は、自身の額にうっすらと汗が浮かび、頬も少し赤くなるくらいには熱くなっていると感じていたが、対するアンリはと言えば、顔色一つ変えず、まるで言っている意味が分からない、とその視線が物語っている。
「この前、『脱いだら』って言ったら、靴ならもう脱いでます、って言ったけど……」
「何か間違ってました?」
「先週、一緒に歩いているときに、手を……避けられたような……」
「よく覚えてませんが、そういえばぶつかったかな、と何度か思ったような気もします」
「……一昨日、隣に座っていいかきいたら、すぐに立ち上がったよね」
「え?ソファに座りたいって言ったから、場所を空けてほしいのかと」
あまりの噛み合ってなさに錦田は思わず泣きたくなった。
これまでなるべく自然に距離を縮めようとしていたのたが、ことごとく避けられているようにしか思えなかった。しかし、アンリの様子からするに、一切避けていたつもりはないらしいことに安堵はするも、全くもってそんな発想には思い至っていないらしいことも明らかである。
ちなみに一番最初は、錦田の家に招いて食事を終えても全くスーツのジャケットを脱ぐ気配がないアンリにさすがに堅苦しいだろうし、リラックスして、まあ少しくらいそういう雰囲気ならないかなと思ってかけた言葉である。
その次は言わずもがな、さりげなく手を握ろうと何度か試みたのだが、少し指先が触れた時点ですぐに白い手は離れていった。
一昨日の件は、自宅に呼んで夕食をとった後ソファに座るアンリに「そこに座ってもいい」と訊いたら、前述したとおりアンリはなぜかすぐに立ち上がったのであった。
今日はその反省を活かし、アンリにはソファに座るように促し、錦田自身は足にぶつからない程度の距離を保ち、傍らのラグの上に座っていた。
いつまでも手首を握っているのもなんだかそれらしくなくて悲しくなってきたので、恐る恐る手の甲を包むように移動させる。アンリは錦田の言葉を考えることに気をとられているだけなのかもしれないが、特に振り払う様子はなかったため、少しほっとした。
「今、なんで帰ろうとしたんだ?」
「一体さっきからなんなんですか。警部、眠いんですよね?」
がくり、と錦田は深く項垂れた。
おそらく恋人になる前の、過去の自身の言動がアンリに多大なる誤解を招いている気はした。しかし、いくら自業自得と言っても、これはもう自然に任せるままにはしておけない。
顔を上げると、本当にわけが分からないらしいアンリは、少しむっとしたように小さく口を尖らせて錦田を見下ろしている。
今すぐにとは言わないが、そのきっと柔らかく甘いであろう口先に、本当は触れてみたくて堪らない。
「アンリ君」
隠し続けてきた熱をそっとこめて、その名前を口に載せた。
「君に触れたいんだ」
手の甲を包むようにしていた手をさらに滑らせて、指を絡めながら握りこむ。初めてしっかりと触れた指は細く、指の間に擦れる肌は想像以上に滑らかで柔らかかった。
「……えっ?」
しばし呆然とした後に、かあっと音が聞こえそうなくらい、一気にアンリの顔が耳まで赤く染まる。
そこに嫌悪が混じっていないことにほっとして、錦田は身を乗り出して近づいた。
「もう、我慢できそうにない」
『肩透かしの恋人』 矢泉さつき
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