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■千と千尋の神隠し■
■桜■



そうか。今は桜の咲き誇る季節だったのだな――。

 あの湯屋の庭はいつでも花が咲き乱れていた。
 春も夏も秋も冬も関係なく。
 花々は咲き誇り、宿に泊まる客を魅了した。
 それを当然と思える程長い時を過ごしていたのだ。

 本来。
 桜とは春に咲くものだったのだ――。


***


「それでお前は八つ裂きにされてもいいのかい」
 そう問い返され、一つの区切りをつけて、ハクは現世に戻ってきた。
 とうに枯渇していたコハクガワという在り方の源。
 戻ってきたところでハク自身という存在を保つ事は出来なかった。

「きっとよ」

 願うように。乞うように。
 根幹に刻み込まれ、響き続ける、ただ一つの絆。
 姿形を保つ術も持たぬまま、それだけを抱え込み、ゆるりと闇の中へ落ちる。
 溶け消える事もないまま。

 かこん。かこん。

 己の核とも言える場所に響く音。
 懐かしく。そして愛しい。
 けれどそれが何の音だったかハクは思い出せなかった。

 千尋はどうしているだろうか。

 闇の中に響く音は、沈んでいたハクの意識を時折思考へ戻す。
 そして共に戻ってくる千尋の言葉を己に焼き付け、己が存在が今も此処にあるのだと奮い立たせるのだ。

 かこん。かこん。

 何処かで必ず知ったはずの音。
 ハクにはそれが何処だったか思い出せない。
 己が気質は竜。己が性質は神。己が本性は川。
 無色透明で空から齎される水が土を介して湧き出るもの。
 
 あの人の子は成長しただろうか。

 人の生は短い。
 コハクガワとして存在していた頃に見守り続けていた人の営み。
 笑い声。鳴き声。喧噪。
 水面を鳴らす足音。水を掻く力強い腕。
 零れる雫を飲み干し。人の体内にある水を潤す。

 かこん。かこん。

 ――己も求める命に、神として川として、その役目を果たす。
 無常という言葉をいつ頃知ったのか。
 情を知る神は。
 いつか己が身を滅ぼす。
 そう言ったのは。
 魔女だったか。人だったか。

 あの。

 絆とは。



 ―――。






 己が源が湧き出る音が響いた。




「ハク!」
 光が一杯に視界に入り、ハクは思わず目を瞑った。
 そして目を瞑るという行為を久方ぶりにした事を思い出した。
 己を支える暖かい温もりに懐かしさを覚える。
 いつかも人の子はこうして己を抱き締めてくれた。
 魔女の呪いに破れ、消え去りそうになっていた己にニガ団子を与え、救ってくれた。
 力強く生き、そして己の生きるべき場所へ戻っていった少女。
 あの頃よりも少し低く落ち着いた声。
 それでも彼女を間違うことはない。
 ともに元の世界に戻ると約束したのだ。
 その絆だけを抱き、ハクは戻ってきたのだ。
 静かにゆっくりと瞼を開くと眩い桃色の光が視界を染める。
 ゆっくりとその光に慣れていくと、己を覗き込む輪郭がはっきりとしてくる。
 あの頃より大人びた少女が彼を覗き込んでいた。

「千尋」

 ハクの名を取り戻してくれた少女。
 神と人の時の流れは異なる。
 それでも。
 もう一度。
 会えたのなら。
 と願わずにはいられなかった少女。

「ただいま」

 あどけなかった笑みは薄れ、それでもあの頃の瞳の色のまま少女は淑やかに微笑む。
 ひらりひらりと舞う桜の花弁と同じ、頬を薄紅色に染めて。

「おかえりなさい」

 絆に温もりが宿った。


***


 枯渇したはずのコハクガワは川の神が宿る事でゆっくりと土から再び湧水し。
 そして流れを取り戻し始めていた。
 すぐ傍にある桜の木の根元には小さな祠が置かれている。
 とても拙いものだが石で組み立てられたそれには、小さく「ハクのいえ」と書かれていた。



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