Thank you for your clapping!






 何をしているのですか、と青年が問うと、少女は振り返って、はにかむ様にして微笑った。




ただ一言が、声にならない






 果てしなく広がる深く濃い天。夜の帳が下り切って、宝石の様に輝く星々が紺碧を飾る時間帯。時折吹く風はひんやりと冷たく、緩く纏められた少女の髪を攫って行く。
 これといって何をするでもなく、櫓からぼんやりと頭上を仰ぐ少女。その背中に何故か喉元が熱くなり、青年は自分自身を誤魔化す様に口を開いた。
「貴国は山間に位置する国ですから寒暖の差が激しい所かとは存じますが、我が国の海風にはまだ慣れていらっしゃらないでしょう。一国の姫君がこの様な時間に、しかも御一人で、この様な所にいらっしゃるのは、お控えになった方が宜しいのではありませんか?」
 人好きのする穏やかな笑みを浮かべ、青年は少女に声を掛ける。同時に自分が羽織っていた外褂(うわぎ)を脱ぐと、背中からさっと少女の肩に掛けた。
「お体が冷えてしまっては大変です。姫様がお召しになるには質素なものですが、せめてそれをお羽織りになって下さい」
 言われた少女は些か瞠目して青年を見ると、それから慌てた様な表情を浮かべる。しかし少女の口から声が発されるより早く、青年は少女の前に掌を翳しておどけてみせた。
「ちゃんとお受け取りになって下さいね。此処でお断りされては男として私の面目が丸潰れになってしまいますから」
「いえ、でも……貴方がお寒いでしょう?私の事は自業自得ですけれど、これで貴方が体調をお崩しになったりでもしたら、私、申し訳が立ちません」
「ご心配は無用です。私はこれでも頑丈な方で御座いますから。まあ、そうは見えないかもしれませんが」
 青年が莞爾として笑うと少女は何も言えなくなり、肩に掛かった肌触りの言い外套をきゅっと握る。次いで控えめに一言、それでは有難くお借り致します、と言って会釈をした。未だ青年の体温を閉じ込めたままの外褂が温かく、何も意識していなかった少女はそこで初めて自分の体が冷えていた事に気が付く。何時から此処でこうしていたのだったか、と思いながら、ふう、と己の手に軽く息を吹き掛けた。
「もっと、気楽にして頂いて構わないのに」
「気楽に、とは……私が、ですか?」
「ええ。私などにあまり礼儀正しくなさらなくても宜しいのに」
「そういう訳には参りませんでしょう。貴女様は姫君でいらっしゃいますから」
「あら、貴方様とて王弟というご身分でいらっしゃるでは御座いませんか」
「ああ。確かに、そうだ」
 まるで、今やっと思い出した、というかの様な青年の口調に少女は思わず笑みを溢した。青年の朗らかな笑みがとても優しく感じられて、そしてそれ故にどうしようもなく胸が痛くて、少女は若干伏せ目がちになる。青年はそんな少女の横に並んで櫓に立つと、でも、と言って付け足した。
「私は……いえ、僕は普段からこんな口調なんですよ」
「そう、なのですか?」
「ええ。そういう風に育ちましたからね。でも貴女がそう仰っしゃるなら、ちょっと寛がせてもらおうかな。どうぞ姫も気楽になさって下さい」
「私は充分気楽にしておりますよ。貴国に助けて頂いて、私は本当に幸せ者だと改めて感じていた所です」
 言ってから少女は困った様に眉尻を下げ、何処か物寂しげな苦笑を僅かに溢す。少女の柔らかく細い髪が夜風に靡く。青年は吸い寄せられる様に少女の瞳を見た。
「『姫』はやめて頂けないでしょうか。私にはその様に呼ばれる資格はありませんし」
 後ろめたいのか、或いは哀しいのか、少女の端整な顔立ちが少し歪む。青年はまた喉元が熱くなるのを感じ、すう、と冷たい空気を吸い込んだ。大丈夫だ、正常に声は出る。これを少女には悟られずに済むだろう、と青年は口を開いた。
「ああ、すみません。貴女にそんな顔をさせたかったのではないんです。言い訳がましい奴だと思わないでほしいのですが、貴女を貶める心算ではなくて」
「そんな、謝らないで下さい。それは分かっておりますし、これは単に、私に心苦しい所があるのがいけないのですから」
 ふ、と少女は空を見上げ、何かを愛おしむ様に目を細める。その横顔に目を遣って、この人はまるで硝子細工の様だ、と青年は思った。
「……星をね、見ていたのです」
「星、ですか」
「ええ。この空に浮かぶ、数え切れない程の美しい星々を」
 静かに、何故、と青年が問い掛けると、少女は穏やかな表情で、心が洗われる気がするのです、と返した。
「数多の星は、人に似ていると思うのです。一つ一つはとても小さいですが、それぞれは確かに光り輝いている。掛け替えの無い、愛しい存在。しんとした空気に包まれて高い夜空を仰ぐと、決まってそれを思うのです。そして、心の内が穏やかに静まってくる」
 太陽はね、と、少女は青年の方を見ずに虚空に向かって声を紡ぐ。高くもなく低くもない、耳に心地良い少女の声が、仄かに潮の匂いがする空へ呑まれて行って。
「太陽は眩しすぎるのです。あまりに明る過ぎて、直視しては目が焼けてしまう。そしてその明るさの為に、周囲の星々も昼間は姿を見せない。眩し過ぎる光は、平凡な者には毒なのです。でもね、ほら、月はあんなに煌々と輝いているのに、他の星を妨げる事はない。たとえそれが太陽の光を反射しただけの、紛い物の明かりであったとしても、願わくは私は、そういう風になりたいと思うのです」
 青年は少女の向く方を遠く見遣って、嗚呼、と胸臆で溜息を溢した。どうしてこの少女を見ていると、こんなにも胸が騒ぐのか。どうしてこんなにも、苦しくなってしまうのか。
「……私達は双子に生まれてしまった。ですが国の女巫たる姫は二人も要らない。だから私達は双子であってはならなかった。私か妹かどちらかが、居ない筈の存在にならねばならなかった」
 眉根を寄せて、しかし気丈に振舞おうと口元には微笑を作りながら、少女は澄んだ声を夜風に乗せる。姫巫女と背格好の似た者がいるならば、影武者として使われるのは極普通の成り行きだ。
「私達姉妹はまるで、太陽と月の様」
 ほう、と少女の吐き出した息が空に吸い込まれて消えて行く。青年は唯、口を噤んだままに少女の仰ぐ空を見詰めている。
「妹は太陽で――私が、月」
 僅かに眉を顰めたまま、少女は己が酷く切なげな顔をしているのを分かっていないのか、口元にだけは薄く微笑みを浮かべて、誰にともなく呟いた。あまりに心に沁みる響き。青年はどうしても、何故貴女が月なのですか、と問う事は出来ない。
 訊かなくても、彼には分かっていた。彼女の想いも、その言葉が意味する事も、彼には全て、哀しい程に全て、理解出来てしまっていて。
 だからこそ、彼は何も、言えなかった。
(title by SNOW STORM 様)     

現在拍手御礼画面は二種類です。






ついでに一言あればどうぞ(拍手だけでも送れます)
お名前 URL
メッセージ
あと1000文字。お名前、URLは未記入可。