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 きい、と鼻先で妻戸が開き、葵和きわ、どうかしたのかい、と、戸の向こうから名を呼ばれた。辺りはすっかり夜の静寂に包まれた、亥の刻。御殿の主に声を掛けようかどうかと躊躇していた葵和は、自ら決断するより早くあちらに引き留められてしまい、あう、と、些か情けない声を口端から漏らした。視線を惑わせながら、日明ひずきさま、と弱弱しくその名を呼ぶと、相手はふわりと柔らかい笑みを浮かべる。そして、こちらにおいで、外に立っていては体が冷える、と、そう言って彼は葵和を自室に招き入れた。
 もう、何度訪れたか分からない、心の落ち着く、日明の部屋。彼が士師となってから葵和が此処に来る回数は減ったが、それでも、彼の居る所こそが葵和にとって帰るべきところだとさえ感じられて。
 また怖い夢を見たのかい、と、小さな子供をあやす様な口調で日明が言う。俯きながら葵和が一つ頷くと、そうか、と柔らかい表情を湛えて、日明は葵和の頭を優しく撫でる。大丈夫、僕は此処にいるよ、葵和の前にいる、決して消えたりなんてしないから。彼はそう言って葵和を抱き留めると、ぽんぽんと葵和の小さな背中を軽く叩く。未だ幼い葵和にとっては、とても大きく感じられる日明の掌。その温もりを感じながら、葵和はそっと瞳を閉じた。
 兄の様だ、と葵和は思う。悉く拠り所を失った葵和が、こうして頼れる唯一の人。否、違う。初めから葵和の掌中には何もなかった。誰もいなかった。何かを得た事なんて、恐らく今迄一度もなかったのだろう。きっと、蜃気楼に惑わされ、夢心地になっていただけなのだ。
 日明さま、ともう一度その名を呼ぶと、なんだい、と頭上から問い返される。葵和は日明の衣の袖口を握ると、ごめんなさい、と掠れた声で小さく告げた。それを訊いた日明は矢張り優しく微笑む。
 謝ることなんて何もないだろう、葵和は僕にとって家族も同然なのだから。言って日明はその場で屈むと、自分の視線を葵和のそれと合わせ、葵和の後頭部に手を宛てがった。きょとんとした表情で日明を見詰める葵和。日明はその鼻梁に唇を落とし、お休み、僕の可愛い妹、とそっと囁く。さっと葵和の頬に朱が差したのを認め、日明はくすりと笑みを零した。




何時終わるとも知れぬ






 ああ紅継くれき、今晩は、どうかしたのかい、と嘯いた男を睨め付け、紅継は冷ややかな声で、日明士師、と彼の名を呼んだ。日明の腕の中には、すうすうと健やかな寝息を立てる葵和がいる。どうしてこいつは何時もこうなんだ、と紅継が胸中で毒吐くと、怖いなあ、そんな顔しないでよ、と日明は笑った。
 分かってるよ、葵和を迎えに来たんだろう。何もかも見透かした様な日明の口調が癇に障る。分かっているなら早く返して下さい、と顔を顰めて言い放つと、でも、僕の許に来たのは葵和の方だよ、と日明が言ってのける。ぴくりと紅継の額に青筋が浮かぶ。苛立ちを押し隠せずにいる紅継をからかう様に、日明はひらひらと手を振った。はいはい、お姫様はちゃんとお返しするから、そんなに睨まないで、と言う日明が腹立たしい。紅継は眉根を寄せたまま葵和の寝顔を覗き込んだ。俺の前ではこんな顔しないくせに、と、思わずそんな言葉が口端から漏れる。しまった、と思った時にはもう遅い。目前にはけらけらと楽しそうに笑う日明の姿。本当に、こんなに大切に想われて、葵和は幸せ者だねえ。茶化す様な日明の言葉に、紅継は軽く舌打ちをする。何となく居心地が悪くなって、ふい、と顔を背けると、紅継は日明から視線を逸らした。
 でも、大丈夫だよ、きっとこの子は何時か僕を離れて、君の隣で笑うようになるから。日明が寂しげな表情で呟いたその言葉は、紅継の耳には届かずに。
(title by SNOW STORM 様)     

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