夏と山吹


 この街の空気は、まだすこしだけひんやりとしている。
 それをかみしめて緑間は空を見上げた。うすくやわらかい青に、白い雲がふわりと流れていく。目線を下げれば、花の盛りを終えようとしている八重桜が揺れた。
 季節は春。寒い冬を越え、ありとあらゆる命が芽吹き、喜びの歌をうたう。
 だけどそれももう終わりだ。
 緑間は夏をつかさどる精霊だ。彼が訪れた地には太陽が照りつけ、強い雨が降る。その影響を受けてあらたな植物が生い茂り、生き物が生命活動を始めたり終えたりする。その土地に必要なだけ“夏”がいきわたったら、秋の精霊と交代して次の土地へ向かう。そのくりかえしが緑間の果たすべき責務であり、誇りでもあった。

 ひとつ息をして、街のはずれ、山裾のひっそりとした小さな森に足を踏み入れる。古株の糸杉に挨拶をして、すこしだけ進むとその木が見えてきた。
 おさえきれず、名を呼ぶ。木の名前ではなく、彼そのものを指す名前を。
「……高尾」
 呼ばれてふりかえったのは、黒い髪をした男の姿をした精霊だ。男の背後の木に咲き乱れる花と同じ色をした瞳が、緑間を認めてきれいな弧を描く。

「真ちゃんじゃん。1年ぶり」
「ああ、1年ぶりなのだよ」
「あーあ、真ちゃんが来たってことはオレの時期も終わりかー。毎年思うけど短けぇっての」

 今年も綺麗に咲けたのに。口をとがらせて高尾がひらりと花びらを風に舞わせる。
 その色が、ほかのどんなものよりもうつくしいと思う。自分の到来とひきかえに終わってしまうことが、何よりも惜しい。
 気持ちが顔に出ていたのだろう。高尾がくすりと笑った。
「真ちゃんの顔、おっかしーの」
「……悔しいのだよ。お前の花を、オレはほんのすこししか見ることができない」
「まーお前夏だもんな、しかたねーだろ。オレだってもっと咲いてたいけど、それだと真ちゃんに会えねえもんな」
 それはヤだな、と笑う瞳には、自分を厭う色はない。
 わきあがる気持ちをおさえられなくなって、緑間は身をかがめた。
 高尾の唇のあまさは、きっと山吹の花の蜜と同じ味だ。



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