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「それで、今日から来るんですか、その特別コーチ?」
大空大地は、中学生の全日本代表合宿に参加している。先日、高校生の地元有力チームと練習試合をして、惨敗したこともあり、キャプテンである大地としては、少々腐っていた。
「君の気持ちはよく分かるからね。だから、楽しみにしたまえ」
コーチの三杉は静かに微笑んだ。

 自身も黄金世代の一人である三杉は、現役を引退してから、スポーツドクターとコーチの二足の草鞋を履いている。そして、自身が日本代表の常連だった経験を買われ、今回もコーチに招かれていた。
 三杉は引退してから長いが、黄金世代の活躍を振り返る本を一昨年出版した。Jr.ユース大会、ワールドユース大会、オリンピック、ワールドカップとサッカー後進国の日本が、強豪を次々と倒していく過程を、その中にいた三杉が書いた本が面白くない訳がない。PRのために、試合解説やバラエティーに出演した三杉の、くせ者だがキレ者というキャラクターもあって、売れ行きは好調、全国のサッカー好きのバイブルとなっている。

 練習が始まっても、大地は落ち着かなかった。チラチラと三杉の方を窺ってしまう。やがて三杉が他のコーチに呼ばれて出た後、戻って来た時には、男性を伴っていた。
 遠目ではあっても、その姿を見ただけで、チームのほぼ全員がその正体を把握した。動揺が徐々に伝染し、広がる。
「おい、あれって…」
「ああ…」
実際に会ったことのある大地も、グラウンドで彼を見ることに、身震いを覚えた。
 歩いて来たのは、見上げる程の長身、筋骨隆々の肉体に黒っぽいキーパーのユニフォームが似合う。短く揃えた髪と彫りの深い派手な顔立ち、それに眼光の鋭い目をすべてトレードマークの帽子に隠した姿は、大地が兄から引き継いだ部屋にも飾られているままだ。
「若林くんだよ。…多分、説明は要らないと思うけど」
三杉が連れて来たのは、黄金世代の中でも、特に輝く人物だ。大地の兄である翼よりも先に世界に出て、ブンデスリーガで今も活躍するSGGK若林源三である。
今この国でサッカーをする少年にとっては、憧れの人物の一人だ。
「若林源三だ。今日はよろしく」
若林の挨拶に歓声が上がるのは、三杉には予想済のことだった。それを見込んで、自身の代表歴と交友を活かしての今回の特別コーチであり、三杉の人脈の広さを窺わせる。

 若林は未だに現役で、代表からは退いたものの、国際大会となれば必ず名前が挙がる、名実ともに日本サッカー界の生ける伝説の一角だ。日本人にしては恵まれた体格と体力、卓抜した技能、類い稀な精神力を兼ね備え、ペナルティーエリア外からのシュートを防ぐことにかけては、世界一と言われたこともある。彼としのぎを削った若島津が引退してからは、全日本の守護神として、若島津のこころをも受け継いだと言われた。特に、所属チームのあるドイツとの決勝戦となった、最後のワールドカップでは、毎試合ハットトリックを達成していたシュナイダーのシュートを3回阻止して、1点に抑え切った。日本中で若林ブームが起こったことは記憶に新しい。

 その生ける伝説の登場に、中学生が動けなくなるのは当然といえた。
「じゃあ、よろしくね」
笑いかけた三杉に、若林は表情を変えることなく、見下ろした。
「とりあえず、動きを見せてもらおうか」

 練習試合以上に動きが固い。若林は表情を崩すことなく、また一語も発することもなく、中学生の練習を見ている。慣れた三杉から見て、若林は決して怒っている訳でもないし、敵意がある訳でもないが、大男の無言のプレッシャーは中学生の集中力を妨げるには十分すぎた。
「俺が悪いのか?」
「まあ、伝説の男だからねえ、君は」
三杉は笛を吹くと、中学生達を呼び集めた。
「一旦休憩入れてから、再開するよ」

 休憩に入り、若林はめいめい座り込んでいる中学生の中を歩いて、大空大地の前に立った。
「よお」
友人の弟の緊張の面持ちに、若林は必要以上に親しげに話し掛けた。
「若林さん…」
家に遊びに来る時とそう変わらない態度であっても、トレーニングウェアを着ている若林は、独特の空気をまとっている。
「どうした?ビデオで見ていた時より、動きが鈍いようだが」
「…若林さん怖すぎですよ。足がすくむとかみんな言ってましたし」
直立のまま目線を下げずに話す若林に、大地自身も緊張を解けない。
「この程度のプレッシャーでやられてたら、世界とは戦えないぞ」
「そうでしょうね」
大地が自身の兄にも言われたことだ。そのプレッシャーを実感させられるとは思っていなかったが。
「石崎よりはお前らの方がうまいんだ。奴にできたことができない訳がないだろ」
肉食獣を思わせる激しい瞳も、笑うと幾分か柔らかく見える。家によく遊びに来る石崎、の顔面ブロックの話は、大地の大好きな話だった。
「俺らの時よりは平均的に体格も良い。…俺ほどじゃないけどな」
激励なのかどうか判断に迷う内容に、大地は苦笑する。
「見えない敵に構っている暇があったら、走れ」
「はい!」
自分は兄と違う、と大地は知っている。前しか見ずに走ることができるのは、一種の才能だ。翼はそれができた。
「この後楽しみにしてるぞ」
若林は後半もプレッシャーを緩めなかった。それでも、大地はそれを跳ね退けようとした。もがき走る内に、ボールしか見えなくなる。自分の必死さが周囲を巻き込むことを意図した訳ではないが、大地はいつの間にか笑っていた。

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モドル



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