書き散らし冰九



「口答えするんじゃねえ!」
 ドン、と音がするほどの一撃だ。明帆に殴られた洛冰河は頬を押さえて地面にうずくまった。小さくなった身体は小刻みに震えている。
 洛冰河より遅く入門した男の子たちまで明帆に倣い、洛冰河を罵倒したりその痩せ切った身体を蹴ったりする。
 抵抗することも声をあげることもなく、ただ体罰を黙々と堪える洛冰河を見て気が済んだのか、明帆たちはあっさりと引き上げた。
 遠ざかる足音。師兄弟たちが去ったあとも、洛冰河はうずくまったまま、すぐに起き上がらなかった。
 しばらく経ってから、ようやく起き上がった洛冰河はまるでやりきれない怒りを発散するため地面を思い切り叩いた。
 荒い息を繰り返し、開いた口から滴り落ちる血の色がやけに鮮やかだ。もう一度、やり場のない怒りをぶつけてから、洛冰河はようやく起き上がった。口元を雑に袖で拭く。白い制服にさらに汚れが増えた。
 やっと立ち去る後ろ姿が見えなくなってから、沈清秋は静かに書庫から出てきた。
 今度の魔族退治の参考にと弟子たちに与える書物が自室ではなく書庫に移したのを思い出し、散歩にがてらにやや離れた書庫に来た。
 目当ての本を見つけ、たまたま目に入った書物も確認しておこうとその場でパラパラ捲っていたら、外から罵声が聞こえた。
 気にすることもなく。目障りの存在を、空気が読める弟子たちが代わりに折檻しているだけ。
 あれほど罵られて殴られているのに、どうして逃げ出さないんだーーそう考えかけて、沈清秋はすぐ頭に浮かんだ疑問を振り払った。過去の自分にも、逃げたくても逃げられないときがあったと思い出してしまいそうだからだ。
 窓の隙間から一部始終を眺める。全員が行ってから、沈清秋はやっと書庫を出た。ついさっきまで折檻が起こった場所を通る。洛冰河がうずくまっていたところだけ、生えてきた雑草が歪んで形になっている。立ち去ったあとも痕跡だけが残す洛冰河に無性にイライラする。
 そのまま通って自室に戻ろうとしたそのとき、ふと視界の端に鮮やかな赤が見えた。
 歩を止め、視線を落とす。
 乱雑に生えた草の間に、小さな粒が落ちている。視線を奪うほど、この場には似つかわしくない赤色に染まった小粒を拾い上げる。
 小さな乳歯だった。
 殴られた衝撃で抜けたのだろうか。それとも単純に生え変わる時期で、ちょっとした衝撃だけでも取れてしまったのか。
「抜けた歯はふとんの下に置くんだよ」
 ふいにやさしい声音が沈清秋の鼓膜を叩いた。ここにいない男の子を思い出す。
 まだ貧しくて、周囲の大人の目を気にしながら息を潜めるように生きていた頃のことだ。ようやく与えられた硬い饅頭を食べていると、ポロッと舌の上に饅頭と違う硬さのものが転がった。
 なんだ、と思った次の瞬間、口の中に錆びた鉄の味がして、ピリピリと痛くなった。咄嗟に吐き出すと、隣に座っていた男の子が吃驚して心配そうにのぞき込んできた。
「大丈夫? どうしたんだ」
「痛……」
 赤く染まったくちびるを見て、男の子は地面に視線を遣い、小さな乳歯を拾った。
「大丈夫だ。ほら見て、乳歯が抜けただけだ。大きくなったって証拠だ」
 そう言いながら、男の子は微笑を見せた。誰に教わったかわからない風習を口にする。
「抜けた歯はふとんの下に置くんだよ。そうすると次の歯が早く生えてくるんだ」
 ふとんらしいものなんてここにない。穴だらけでボロボロのゴザの下に乳歯を忍ばせ、その上にふたりは身を寄せて眠りについた――
「……くだらない」
 捨てたはずの過去が脳裏に浮かび、沈清秋は嫌そうに顔を顰めた。やっぱりアレは、目障りだ。そんな記憶を蘇らせたきっかけとなった歯を放り投げ、再び歩を進める。


 


 〜九と白蓮華の話が好きですよ〜拍手ありがとうございました〜
 



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