『お仕事ください!』番外編ショート 学習研究社 /もえぎ文庫 初出/2010年1月『ドラマCD発売記念全員サービス』小冊子 再録/2010年8月発行『下町ノスタルジア』同人誌 *星に願いを* 東京には空がない。 そう言ったのは有名な詩人の妻だが、空がなければ星を見ることもできない。 路上で立ち止まった藤咲は、夜空に小さな輝きを見つけようと目を細める。しかし上空に広がった闇の 世界には、星座どころか星ひとつ見当たらない。天候が悪いせいもあるだろう。 「どうした、UFOでも飛んでるか」 背後から近づいてきた黒川が、釣られたように冬の空を見上げる。首には濡れタオル、手には風呂桶、 足元は下駄。歩く度にカロンコロンと軽やかな音色を響かせる。 「いえ、星がぜんぜん見えないなぁと思って……。東京だと、満天の星空はムリですね」 「晴れてりゃ少しは見えただろ。ガキのころは流れ星を見たことあるぞ」 「えっ、流れ星ですか!」 「だからって、どうってことねえけどな」 それでも何かを探すように黒川は夜空を見渡し、軽く肩がぶつかった。石鹸の柔らかい香りが藤咲の鼻 先をくすぐる。自分も同じ匂いがしているのかと思うと、くすっと笑みが零れた。 「なにニヤニヤしてやがる。気持ち悪ぃだろうがよ」 「あ……ええと、銭湯なんてめったに入らないから、新鮮で浮かれてしまって……。すみません」 「てめえは一体どこの坊ちゃんだ。下町っつったら銭湯だろうが」 地元への愛郷心は薄いにしても、昭和の古きよき時代にはこだわりがあるようだ。 「まあ、変わってねえようで、いろいろ変わっちまったモンもあるけどな」 なにげない一言に重みを感じながら、藤咲はそうですねと頷く。 商店街から外れた裏手の一角に、昭和初期から営業している銭湯がある。客のほとんどは近所の年寄り だが、たまに銭湯マニアやファンなどが、昔を懐かしんで訪れるようだ。 破風屋根に番台、高い天井に裸電球、深い浴槽、坪庭には鯉。建物のレトロさもすごいが、湯は井戸水 に薪炊きというから驚きだ。しかも壁のタイルには富士山の絵。 肌を突き刺すような熱い湯に、黒川は平気な顔で長いあいだ浸かっていたが、藤咲は拷問でもされてい る気分だった。湯舟から出たら全身が真っ赤で、同じように赤い黒川に笑われた。 一般の銭湯なら彫り物は御法度でも、ここでは入浴を断られることはない。江戸っ子が好む、由緒ある 昔ながらの銭湯だったが、時代の流れには勝てず近いうちに廃業するらしい。 「残念ですよね。風情があって、とても素晴らしい銭湯なのに、ほんと勿体ないです」 「商売ってのはそういうもんだ」 「活版印刷も……、いつかはこの世からなくなってしまうんでしょうか」 口にしてから無神経な発言だったかもと後悔したが、黒川はまったく気にしていない様子で、そうだな と軽く受け流す。歩きながら煙草をくわえ、ちらりと視線をよこしてきた。 「てめえは、永久に存在するものが、この世にあると思うのか」 「それは……」 難しい質問だ。あるというのは簡単だし、それも嘘っぽい。ただ、ないというのも寂しい。 「わからないですが……でも、あってほしいです。できれば活版印刷もこのさきずっと——」 「甘いな」 すげなく遮られて藤咲は足を止めた。前方の黒川も立ち止まり、背を向けたまま続ける。 「終わりがなきゃ始まりもねえ。なんでもそうだろ。寿命があるから輝く」 なるほどと、素直に感心した。 「黒川さんは、意外とロマンチストなんですね」 「ぁ〜ン? てめえに言われたかねえっ」 鬼のような形相で振り返られて、藤咲は思わずヒッと小さな声をあげて後ずさっていた。 「いいか、アホには見えねえかもしれねえが、俺にはな、ギンギンに見えてるぞ」 「な、なにが、です?」 「星だ、星!」 「えー、どこですか? 僕には見えないです……」 怒鳴り声に耳を覆いながら、上目遣いできょろきょろと見るが、星らしきものはない。 「見えなきゃ、気合いで見ろ」 「き……気合いですか」 そんな無茶なと思いながらも、藤咲は自分なりに考えて、両手で強引に目を大きく見開き、夜空を見上 げた。 瞬きができないので、すぐに涙が滲んで視界がぼやけてくる。 「うぅっ…、だ、だめです。目が痛いだけで、なにも見えません」 「人をおちょくってんのかっ!」 握り拳で手加減なしに頭を何度も叩かれる。その度に鈍い痛みで目の前がチカチカした。 「今、少し見えたような……」 「それ以上くだらねえギャグをかましやがると、次はマヌケ面に鉄拳を埋めるぞ」 「わっ!」 フェイントで尻を鷲掴みにされ、驚いてぴょんと飛び上がると、黒川は声をあげて笑った。 「なんだ、てめえはウサギか」 おかしそうに笑う姿が悪戯好きの少年のようで、藤咲も一緒になってえへと口元を緩める。 それにしても、目で見えなければ心の目で見ろと、そういうことなのだろうか。 藤咲はふたたび天を仰いで、遠い目で遥か上空を見つめる。薄い雲に覆われた月が、おぼろげに光を 放っている。さきほどの黒川の指摘から、月とウサギの神話を思い出した。 「そういえば昔は本当に、月にウサギが棲んでると信じてたなぁ……」 一体いつから信じなくなったんだろう、と藤咲は独り言のようにつぶやく。 東京の空も同じだ。いつから東京には青空がなくなり、夜には星が見えなくなったのか。 「 でも、今は見えなくても……宇宙にはたくさんの星が輝いてるし、僕が大人になっただけで、世界は なにも変わってないのかもしれないですね」 また呆れられるかと思ったが、黒川は小馬鹿にすることなく、無言で煙草を吸っていた。 「星はたくさんはいらねえだろ。ひとつあれば充分だ」 「そうですか? でも、たくさんあったほうがきれいじゃないですか。冬の星座だって——」 黒川は足元で煙草をねじ消すと、真剣な顔でずいっと目の前へ一歩詰め寄ってきた。 「本物はひとつあればいい」 睨みをきかせたような鋭い目で、顔を覗き込んでくる。なんだろうか。含みのある言葉だ。 「てめえが——」 眉間にしわを寄せた黒川は、突如、周囲の木々を揺さぶるような大きなくしゃみをした。 「うー、っくしょう、てめえがちんたらしてっから、湯冷めしてきたじゃねえか! 行くぞ」 「……はい、すみません」 黒川は鼻をぐしゅぐしゅさせながら、さみぃと背中を丸めて歩いている。だったら、濡れタオルを首に 巻くのをやめればいいのでは、と思っても藤咲に進言する勇気はない。 静かな夜道を、ふたりで肩を並べてゆっくりと歩く。桐の駒下駄の音と、遠くから聞こえる犬の吠え声 が、凛とした夜気に溶け込んでいく。見るからに冷たそうな、黒川の素足。 細い足首に尖ったくるぶしが男らしい。手と同じで、足の指も長くて爪の形がきれいだ。少し短かめの スウェットがいささかオヤジくさいが、黒川の体はどこをとっても無駄がない。 「おい、しゃんと前を見て歩け。金なんか落ちてねえぞ」 「は…はい」 男の足に見惚れていたことが急に恥ずかしくなり、顔が熱くなった。 ほどなくして、小さな児童公園にさしかかる。今では多くの若い夫婦が再開発された駅前のマンション に移ってしまったため、公園で遊ぶ子供の姿はない。けれど昔は黒川もここで、母親と一緒に遊んだりし たのだろうかと、藤咲は想像した。 「……あの、黒川さんは、子供のころ流れ星を見たとき、なにか願いごとはしたんですか?」 しばらく沈黙していた黒川は、困ったような顔で鼻の頭をかき、白い息とともに答えた。 「そうだな、したかもしれねえな」 「えっ、なんだったんですか、知りたいです! 教えてください」 子犬のように目を輝かせて藤咲が纏わりつくと、黒川は鬱陶しそうな態度で睥睨した。 「うぜえなっ、願いごとってぇのは、他人には教えねえもんだろ」 「それはそうですけど……」 気になる。幼い黒川の望みがなんだったのか、それは今でも変わっていないのか。もし、自分になにか できることがあるならば、少しでも役に立ちたいと藤咲は強く思った。 「そんなことより——、慎一」 「はい」 「てめえだったら、今、なにを願う」 「……え」 唐突に話の矛先を向けられて、藤咲は、そうですねぇと歩きながら考え込む。特にほしいものはないし、 生活に困窮することなく、心身ともに健康だ。とりあえず今のところ欲はない。 「どうした、なにも望みはねえのか? つまんねえ男だなぁ」 そう言った黒川のほうがつまらなさそうで、思わず笑いが零れそうになった。願いがあったら、叶えて くれたというのだろうか。もしかしたら、同じことを考えていたのかもしれない。 「……そうですねえ、僕の望みは——」 目の前にまっすぐ伸びた裏通り。このまま進めば黒川印刷へと到着する。それからの成り行きは推して 知るべしだが、こうしたなんでもない時間に、この上ない幸せは満ちている。 「教えません」 「なんじゃそりゃ」 黒川は不満げに声を荒らげたが、すぐにふっと鼻で笑うような息をついて前を見据えた。 狭い通りの両脇に並んだ数少ない常夜灯が、道しるべのようにふたりを誘う。 この一本道が永遠に続けばいいのに——。 頭の上で輝いているであろう、目には見えない星にむかって、藤咲はそう願った。 -END- |
|