拍手、ありがとうございました! 何処へ向かっているのか、何故向かっているのか。 苦しい位が丁度いい 何も知らされぬまま、日野は柚木に手を引かれ、昔から耳に蛸が出来るほど聞かされて続けてきた学校の基本的なルールを今思い切り無視して、ひたすら廊下を走っていた。 ただ彼の美しくたなびく髪と、冷たい背中とが日野の視界を支配し、揺れていた。 強く掴まれた手首が痛いとか、息が切れて苦しいとか、いったい何を怒っているのだ、とか不満や疑問は尽きないのに、黙って従っているのはきっと惚れた弱みという奴なのだろう。柚木の機嫌を損ねたくないとの思いが何よりも先行する今の日野の心はすっかりいかれてしまっているらしい。昔だったら彼の勘気を恐れない心意気があったかもしれないが、この恋と一緒にすっかり挫かれてしまっていた。 柚木が日野の教室を訪れるのは極めて稀なことだった。付き合い始めの頃は周りの目も憚らず彼女を迎えに来た彼であったが、他の女子生徒の目が煩いのを嫌った日野がそれだけは勘弁して欲しいと哀願し、それが珍しく聞き入れられた結果である。彼が、その約を違えてやって来た。そのことを今日、格別に咎め立てる気は起きなかった日野は、久しぶりに顔を見て嬉しさすら感じていた。だがあからさまに喜色を滲ませるほど素直にはなれず、ぶっきらぼうな態度で柚木の元に歩み寄る。だが、そこで気付いてしまった。彼の機嫌が頗る悪いことに。 「どうかしたんですか…?」 恐る恐る尋ねてみれば、柚木は薄い笑みを浮かべた。口元が歪んで見える。その表情は危険だという日野の頭の警鐘は常と変わらず、腹立たしいほど的を射ていたに違いないが、予想され得た柚木の口撃が放たれる前に、他方から上がった黄色い悲鳴が彼女を救った。しかし、ここからその救いこそが日野を悩ませるのである。 「こんな所にいらしたんですね!」 「まぁ、またそんな娘と…」 毒々しい視線を向けながら現れた親衛隊の面々に日野は我知らず眉を顰め、嘆息した。こんな場所ではゆっくり話もできそうにない。だがこんな場所でなければ柚木に話をきちんと聞いてもらえるのかと問われれば、一片の迷いなく首肯することは出来かねるのであるが。 密かに柚木の様子を伺えば、彼もまた眉を顰めていた。同じ思いでいるらしいことに取り敢えず安堵した日野は、次の瞬間、柚木の取った突飛な行動に驚かされることになる。 「香穂子、走るぞ」 そう小さく耳打ちし、柚木は彼女の手を引いて走り出した。 「え、ちょ…」 崩しかけた体勢を持ち前の見事な運動神経で立て直した日野は、そのまま柚木に文字通り引きずられていった。その背中を怒気を孕んだ悲鳴が追いかけてきたが、二人はそれらを振り切って前だけを見て走った。 普通科の特別教室棟は、放課後ともなれば生徒の姿を殆ど見かけない。それを見越してのことなのか、柚木にしては珍しく息を乱している。繋がれた手を通して直に日野にも伝わってくる荒らかな呼吸。 こんな彼の姿を誰が想像できるだろうか。優雅な柚木の肖像を信奉する女子生徒が見たら卒倒するかもしれないような、奇妙な光景を眼の前にして、言葉も思考すらも放棄した日野は彼の背を追い続けた。 走り続け、お互いに息が切れてきた頃、柚木はたまたま鍵の開いていた近くの教室に日野を押し込むと、自らもそこに身を滑り込ませた。プレートには社会科準備室とある。どうやら教師が戸締りを忘れたものらしい。 後ろ手に扉と鍵を閉めた柚木に改めて見下ろされ、日野は戸惑い、視線を彷徨わせるが、不機嫌な冷たい声に引き戻される。 「俺は今機嫌が悪いんだ」 「…そう、みたいですね」 「何故だと思う?」 「……さぁ…?」 思い当たる節はないこともなかったが、白を切ろうとする日野を許す気配はなく、柚木はすっと腕を伸ばした。 「…三日だ」 日野は壁に押し付けられ、逃げ口を塞がれる。 「お前の意見を尊重してやったせいか、もう三日、口すらきいていない」 確かに三日間はそのようであったかもしれないが、それは言い掛かりだろうと日野は眉を顰めながら聞いていた。その間も一寸の隙も見せまいとぴんと姿勢を正して正面から柚木と相対することを忘れない。 教室に迎えに来ることを拒んでからも、柚木との登下校に支障はなかった筈である。すれ違いがあったことは確かだったが、日野には何ということはないという認識しかなかった。 「それは…練習があったから」 包み隠さず、理由を真実のままに伝える。しかしそれは事前にメールで通達した内容と一字一句違わぬものである。彼も既に承知している筈なのに、何故今頃蒸し返すのかと日野は首を傾げるばかりだった。 だがその問いは既に看破されていたようだ。或いは、最初から発言の余地が用意されていなかったとみるべきかもしれない。 「練習、ね。…つまり、お前にとっては俺は練習以下の存在というわけ?」 「それは…」 違う、と言いかけて日野は口を噤む。間近にある柚木の目が揺れているような気がして、胸が痛んだ。だが素直な言葉を口にするのは難しい。手をついた冷たい壁の温度につられるように、口を開けば白々しい虚言ばかりが飛び出してくる。 「そうかもしれない」 柚木の柳眉が躊躇なく顰められるのを見て身の危険を察知するも、目は逸らさなかった。弱味を見せたくない一心の虚勢を、彼もきっと見抜いているに違いない。知っていて尚、それを楽しんでいるのだ。悔しいけれど、そんな彼の手の上で踊らされているという関係はこの先も覆らないという確信めいた予感が日野にはある。 かつん。不意に耳に届いた靴音が、段々とこちらに近づいてくる。音の主は執念深く追ってきた生徒か、否、鍵を閉め忘れたことに気付いた教師かもしれない。この状況を誰かに見られでもしたらと焦る日野を尻目に、柚木は腹が立つほど落ち着いている。 「先輩、誰か来ますよ」 押しのけようとするも、柚木はびくともしない。 「退いてください」 そう言って睨みつけたが、彼の場違いなほど優雅な微笑に出逢ってぎょっとした。 「何故?」 「何故って…」 日野は思わず呆れてしまい、次の言葉が続かない。二人の親密な現場を生徒に押さえられたのなら、文句を言われるのは大抵彼女一人だろう。教師であれば気まずい思いをするし、反省文の一本書かされることになるのだろうか。何れにしろ面白くない事態に陥ることは間違いないのに、柚木こそ何故こんなにも落ち着いているのか。精神回路が異なっているのだろうかと、思わず交際自体を見直そうかとも考えた日野であったが、 「見せ付けてやればいい」 随分勝手なことを言い放って、柚木は再び強引に唇を奪う。日野は抵抗しようにも突然のことで呆気に取られ、また随分と深い口付けに理性が痺れて働かない。すぐ側に来ている筈の靴音が急速に遠のいていった。これが柚木の策なのだと承知の上で、愚かだと知りつつ、望んで彼の術中に嵌っていく。 彼女の視界にはもう柚木しか映らない。彼一色に染まる世界にきつく拘束されて、身動きが出来そうにない。息もつけないその激しさが、不器用に拗れていく言葉よりも雄弁にこの恋の狂おしさを語るのだ。 だからきっと、苦しい位が丁度いい。 Completed 08.11.15 Revised 08.11.17 随分と間が開いてしまいました…。 リハビリ作品。 お題配付元:リライト |
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