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「なんか、ムカつくわ」
「ンだよ黙っとけよ、手元狂うだろ」

 彼の指は意外と細い。けれど浅黒い指の継ぎ目のふしは、やっぱり男の人でごつごつと節くれ立っている。
 すぐ近くにある顔を見るのは気が引けて、代わりに彼の指を観察していたのだけれど、その繊細な動きに迂闊にも見惚れてしまって、私はむすりと溜息混じりに理不尽な抗議を投げつけた。
 案の定苛立ちの感情を一片も隠しもせずに手に持ったパウダーブラシをひっくり返し、柄の部分で額をぐりぐり押し付ける彼―クズ男―ザップは、嫌がる私に性格の悪い笑みを浮かべて満足するや、指先でダメ押しのデコピンをかまして、またくるりとブラシを持ち替える。

「大人しくしてねェとジャパニーズ福笑になっちまうぞ」
「なによそれ」
「学が足りねぇなあお前」
「るっさいわね、アンタのジャパニーズ知識が変に偏ってるだけでしょ」

 ぷいっと顔を背けるけれど、雑に顎を掴まれてまた真正面向きに戻される。顎に残る熱にどくどく煩く脈打つ心臓が鬱陶しくて、私は口を閉ざす。

「可愛気ねーからもてねーんだよーお前はよー」

 なんでどうして一体全体何が悲しくてこんなチンピラみたいな男に惚れちゃったんだろうか。それでもって、どうしてそんな最低男に今、私は化粧なんてされちゃったりしてるんだろうか。
 可愛げがないなんて百も承知だし、アンタだってモテないでしょなんて間違っても言えないくらいこの男は女たらしだ。
 仕事のない日は多分女か酒かで、仕事だって切って燃やして蹴って殴ってのザ・暴力。原始人みたいな男の癖に。女を切らしたことなんて、きっと無いんだろう。ムカつく。

「おい、なに人殺しみたいな顔してンだこえーぞ」

 折角このザップ様が化粧してやってんだから可愛らしく笑っとけとぶっきらぼうに言うと、パウダーファンデーションの表面を回し付けたブラシの表面を自分の手の甲にくるくる回し付けて、馴染ませた。褐色の肌の上で、私のファンデーションは白く浮き上がる。
 こんなに粗野な男なのに、そういう仕草はどこか繊細で、あぁそんな一面知りたくなかったと目を瞑る。好きになっても無駄なのに。嫌いになれたら楽なのに。

 目を瞑った無抵抗な私の肌の表面に、やわらかなブラシの先が触れる。頬の上で滑り、額を軽く撫ぜ、鼻筋を通って口周りへと満遍なく。どこか手慣れた様子が面白くない。

「どうして化粧なんてできるのよ」
「あー?……ふつー、覚えるだろ」

 薄目を開けると、私がいつも使ってないハイライト用の面をブラシに馴染ませているザップの姿が見えた。彼の視線が此方を向く前に目を瞑ると、額と鼻先、目の下にすっとブラシが通される。くすぐったい。

「毎朝枕元でしてンの見てたら、勝手に」

 ――面白くない。分かってる。取っ替え引っ替え日替わりに女の家を渡り歩いて、奢らせて貢がせて、なのに全然器用じゃないから始終刃傷沙汰起こしかけて実際起こして刺されて入院して。
 どうして何股もするの馬鹿じゃないの、早死するわよなんて言ってみたところで彼には響かないし、受け入れない彼の軽薄さにどこかほっとしている。彼はまだ誰のものではないって、馬鹿馬鹿しい安堵に浸れるのだから。

「覚えないわよ、普通」
「あァ?覚えるだろ、ふつー」

 ザップは人間の屑だが天才だと、我らが上司が苦々しく告げたのを覚えている。
 戦闘能力は勿論、力の活用させ方の柔軟性、危機察知能力に至っては野生すら感じさせる鋭さを持ち合わせている。
 プライベートに於いてはその能力は底辺までに下がるようだったが、人間の本質は変えられない。妙な部分で残る彼の器用さは、こういった細かい部分でこそ輝くのかもしれないと思った。

「お前も覚えろよな、女だろうが」
「覚えてるわよ、面倒だからしないだけで」
「うっわー……それ終わってンぞ」
「始まるものも無いんだからいーじゃない、ほっといて」
「これから始めに行くんだろうが、試合始める前から諦めてんじゃねーぞ」

 試合相手に謝れバーカ安○先生哀しむだろうがなんて随分かつ意味不明な物言いをされてちょっときょとんとしかけたけれど、そういえばそうだった。今日は“そういう”名目だったか。

 仕事帰り、今日も寂しく家で一人酒かと突っかかられて、合コンだ、なんてうっかり見栄を張って、ンな面で行くつもりかテメエと何故か叱られ―そうして今に至ったのだ。
 そんなものはないから開始時間もないのだが、遅刻するじゃないと言ってみても、ンな面で行くぐらいなら遅刻した方が何万倍かはマシだと言われて、そこで抵抗を諦めた。分かってはいたが、本当に脈が無い。

 泣きたいと思った頃にはもうアイメイクが終わっちゃっていて、泣くこともできなかった。ウォータープルーフ、買っておけばよかった。泣けばコイツはちょっとは動揺してくれるんだろうか。
 そんな心の内はちっとも察してくれないままチークを引き終えたザップの指が私の顎を再び捉えて、少し上向きにさせる。

「ンな色持ってたのかよ」
「……あんまり使ったことないけどね」

 彼が手にとったのは真っ赤なルージュだ。綺麗だとあの時は思った。店頭に並んでいる口紅の海の中で一際輝いて、艶めいていて。これが似合ったら、彼に似合う女になれるだろうか。
 似合ったって、“そういう意味で”彼に似合うことなんて望んでないというのに。私は随分勝手な女だ。
 彼は思案顔でそのルージュを眺めていたけれど、やがて根本をくるっと回して口紅の先端を空気に触れさせる。つるりとした表面は、使用感が殆ど無い。

「本気で全然使ってねェな」
「似合わなかったのよ」
「ふーん」

 口紅用の細いブラシをその表面に塗りつけて、私の顎の下に添えた指に軽く力を込める。
 抗わずに上向くと、真剣な目をする彼の視線とすれ違う。彼は私の唇を見つめていて、そのまま私の唇に色を乗せる。ちょっと唇開けろなんて殺し文句を言う彼の目には、今何が見えているんだろうか。馴染みの女?だとしたらあんまりだ。ここにいるのはどうしようもないクズに恋しちゃってる私ただ一人だっていうのに。

 知らず目が潤む。

 泣かない一線を保つのは、彼の施したアイメイク。悔しいけど、彼が私にしてくれた、初めての何か、だ。それが他の男のところに送り出すための、同情からきた行為だとしても、嬉しいんだからしょうがない。本当に馬鹿なのは私だ。

 唇を塗り終えた彼の目線が上向く。目が潤んでるのを見られただろうか。ちょっと目を見開いたザップが二度瞬いて顔を引く。

「お前にゃその色、濃すぎだな」
「……うるさいわよ、ばか」

 どうせザップ好みの女にはなれやしないわよ。ふいと顔をそらす私の顎には、彼の指がまだ引っかかっている。
 振り払おうと手を掛けたけれど、その手がぎゅっと握られた。近寄る彼の顔、少し伏せた彼の瞳が瞼に覆われる瞬間が見えた。

 言葉も何も出てこない。出せない。唇と唇が触れ合っている。ただ、触れ合っているだけ。少しザップの唇が開くけど、迷った風に閉じて、我に返ったようにばっと身を引かれた。
 私は呆然と目を見開いて、彼を見る。少し赤い彼の唇。私の赤が移った、彼の。くちびる。

 ザップは自分でしでかしておいてきょとんとしていたけど、やがてバツが悪そうに目を逸らし、私の唇を見た。

「……そんぐらいが、ちょーどいーんじゃねえの」
「な、なにが」
「色。口紅。悪くねえ。似合ってる。あー、その、なんだ。合コンガンバ」

 キス、したせいで少し色味が薄まった口元を見てごまかすように告げると、引っ張り出した化粧道具を片付けることもせずにザップは立ち上がり、そそくさと逃げるようにして去っていく。私はなんだか犬に噛まれたみたいな気持ちになってぼんやりとソファに座って、固まって、扉の閉まる音がして、足音も何も聞こえなくなってから、遅れて唇に指先を触れさせた。
 どこか遠い、柔らかくて冷たくて、ろくでもなくて苦くて甘いあの感触。夢にしては、指先に残る赤がリアルすぎた。


「馬鹿ザップ」


 クズのくせに、バカのくせに。振り向かないくせに。今日も知らない女の家に転がり込んで、抱くくせに。
 最低男なのに、嫌いにならせてくれない彼が、大嫌い、になりたいのに、すき。どうしようもなく、好き。



 明日からこの口紅を付けて行ったら、彼は少しは意識してくれるだろうか。
 近付くはずのない距離を諦めきれないまま、私のどうしようもない日常は、度し難い人間のクズなザップを中心に回っていくのだった。


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