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お礼小話 【小譚詩】(死目アン話・暗め)







 パチリと音がして、部屋がふわりと明るくなる。アンリは読んでいた文庫本から顔を上げて、リビングの入り口を見た。深い緑色の帽子と、コートを衣紋掛けに掛けながら、錦田が生気のない目でこちらを見ていた。
 ――電気くらい点けろ。目が悪くなるぞ。
 そう言って錦田は、持っていたビニル袋をテーブルの上に置く。がさりと袋が崩れて、中からマッシュルームの詰まったパックがこぼれ落ちる。
 ――読むのに夢中で、忘れてたんですよ。それに、手元灯は点けてますし。
 ――没頭するのはいいが、自己管理も仕事のうちだ。目つきが悪くなるぞ。
 ――……警部みたいに?
 あはは、と笑うアンリの声に、錦田は微かに目元を細めてビニル袋の方に向き直った。ガサガサ音をさせながら、野菜や肉類を選別する。
 ――今から飯作る。待ってろ。
 ――ぼく、グラタンがいいです。
 ――そう毎日毎日同じものばかり作れるか。
 嘆息混じりに言い捨てる錦田の近くに、アンリは軽い足取りで近付く。邪気もなく手を伸ばしては、材料を掲げ持つ。
 ――ほら、もも肉! グラタンの分でしょう?
 ――……それは明日の分だ。今日は我慢しろ。
 ちぇ、と口を尖らせるアンリを見遣ると、錦田は不意にその華奢な体を引き寄せた。ト、と爪先でバランスを取りながら、アンリはきちんと錦田の懐に着地する。艶々と丸い頭に唇を寄せると、甘い花の香と共に、まだ若い皮脂の匂いが香った。唇が離れたのを確かめてから、アンリは上目遣いに錦田を見上げる。そうして、何か不満だと言わんばかりに、再度ぽちりと唇を尖らせた。
 く、と低く笑んで、錦田は強請る唇に自分のそれを重ねる。錦田は降るものから庇うようにかがみ込んで、アンリは背伸びするみたいに爪先立って。ふわふわといとけなく、温かな慣れた感触。錦田が身を引くと、もっと、というように少しだけ追いすがる彼が心底可愛らしかった。
 ――……腹減ってんだろ。急いで作る。
 ――…………。
 低く、諭すように言い放つと、アンリはそれでもやや不満げに綺麗な眉を顰める。けれどすぐに機嫌を翻して、錦田の胸元にぎゅうと腕を回し、それからまるで体重を感じさせない軽い足取りで再びソファに戻り、くるんと腰を下ろした。ふ、と僅かに口元を綻ばせて、再びガサガサと袋を漁る。明日、アンリの強請るグラタンを作るために買ってきた、にんじんとじゃがいも、それにブロッコリーに、マッシュルーム。
 ――……。
 くら、と軽い既視感が襲う。眉根を寄せ、目をしばたたく錦田を、アンリはジ、と猫のように見ていた。



 ――じゃあ、消しますよ。
 布団に横になり、「おう」と返すと、アンリは細い腕を伸ばして枕元の簡易照明を切った。途端、部屋は水底に沈み、濃い夜闇に包まれる。
 ――おやすみなさい、警部。
 ――おう。
 そう言って、簡単なスウェットに包まれたアンリの体を引き寄せる。そうして、その細いうなじに唇を押し当てた。この辺りは情欲と言うよりは、そうすることで安心するといった方が正しい。アンリも心得たもので、腕の中で軽く身をよじるだけで大きく抗おうとはしなかった。
 ――もう、くすぐったいですってば。
 ――うるせえ。
 錦田はアンリの肌に口を付けたまま短く言った。アンリはふんと息をひとつ吐いて、腕の中で体を反転させる。そうして、錦田の懐にすっぽり収まると、その首元に額をくっつけた。
 とろとろと、とろとろとした眠気に襲われる。このところ激務続きで疲れているから。そんなことを思いながら、アンリの髪に口を寄せる。ほのかな体温。コト、コト、と自分のものではない鼓動。思考が系統性を失い、天が地になり、地が霧散した。真っ黒い瞼の裏が、いや夜の闇が見える。あれは星、いや下町のネオンだろうか。キラキラとした色とりどりの粒が、飛翔しては消える。風が耳元でゴウゴウと唸る。教会の鐘が、サイレンが鳴り響き、レーザー照明と赤いパトランプ。高らかな、少年の笑い声が響く。




「『アリアドネの竪琴』、確かにいただいた!」



 ――……っ!?
 ハッと目を開けると、暗い寝室が広がっていた。だいぶ闇に目が慣れてきて、いつも被る掛け布団と古風な壁紙の前に、心配そうに愁眉を寄せたアンリの顔が見える。
 ――どうしたんですか? 悪い夢でも?
 ――…………。
 ハァハァと肩で息をしながら、錦田は粘つく額の汗を手のひらで拭った。そうして、その手もアンリの背に回す。
 ――夢、か? よく分からないが。
 ――うなされてましたよ。
 ――……。
 ――怖い夢のことは忘れて、眠ってください。ぼくが子守歌を歌ってあげますから。
 ――……ガキか、オレは。
 くす、とアンリは悪戯っぽく笑うと、錦田の髪の毛をくしゃり、くしゃりと撫でつけた。本当に子ども相手にするような手つきに、錦田はむすりと顔を顰める。
 ――………………――
 アンリの唇から、静かに、囁くような歌声が流れ出る。まだあどけない、ボーイソプラノ。
 どこかで聴いたことのある旋律だ。髪を撫でられながらそれを聞くうち、錦田は強ばっていた体が再び緩んでいくのを感じた。とろとろと、甘い眠気が頭蓋の中を満たしていく。
 ――…………。
 途切れた歌声に、錦田は目を細めたまま、口を開く。
 ――……どこで覚えた? その歌。
 ――……さあ、忘れました。
 三日月の形に笑んだ唇が瞼の隙間から見え、それもやがて消える。眠りの闇に沈んだ中で、アンリは同じ歌を繰り返す。幾度も、幾度も。

 ――……ここに、一緒に、いましょう警部。
 ――…………。
 ――……一緒に、ずっと…………。
 ――………………。

 闇に沈む部屋。布団に、枕に、照明に、違い棚。全て飲み込まれた闇の底で、ただ二人、溶けてたゆたう。腕の中の温もりがふとかたちを失い、体の境界も、輪郭すらなくなって。
 ただ、そこには空っぽの部屋と、細く懐かしい歌声が残響していた。


《終》



〈2019.7.26〉

囚われたのはどちらの夢なのか?






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