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おまけはテディベアの話

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「ただいま。ミツタダ」
 暗がりの中、手探りで明かりを灯す。一番明るくしているはずなのに一段階暗いのは蛍光灯がひとつ切れているからだ。今日も買ってくるのを忘れた。明日こそ必ず買わなければ。と、心に決めること今日で5日目。
「まったく一雨ごとに冷えてくるな。もしかしたら夜更けに雪になるかもしれないらしい」
 白い指先でエアコンの電源を入れる。ゴウッという低いモーター音が部屋の空気を震わせた。リモコンに表示されている現在の室温は十四度。設定温度を一気に二十四度まで上げると年季の入ったモーターが唸りを上げる。
「部屋寒かっただろ。すぐあたたまるから、それまでこれ巻いてろ。俺は風呂に入ってくる」
 コートを脱ぎ、体温の残るベージュのマフラーで真っ黒なモコモコを包み込んだ。
 長谷部は黒いテディベアと暮らしている。
 名をミツタダという。
 
 
【ひとりとひとりと一匹と】


 ミツタダとの出会いは、東北出張に行ったとき偶然入った喫茶店だった。年老いた店主が店の傍らに設けた展示スペースに、ミツタダは飾られていた。聞けば、亡くなった店主の妻が販売していた物らしい。
 飲みかけの珈琲をそのままに、長谷部はテディベアの並ぶ長机に歩み寄り、腰をかがめた。
 定番のブラウンにも濃淡が様々ある。黒に近い焦げ茶から、アイボリーに近い淡いブラウンまで。ピンクや緑、黄色、青、水色、白。
 大小様々、色とりどりな個体がいる中、ミツタダはひときわ目を引いた。柔らかくつややかな黒い毛並み。ぬいぐるみのくせに凜とした佇まいがとても魅力的だった。
 ミツタダは左目になめらかな革の眼帯を付けている。彼には片目がなくてね、と店主が指でそっと引っかた眼帯の下には何もなかった。
 店に並んでいるテディベアたちはすべて海外の職人が作る一点物だという。このテディベアの目は輸送の途中で壊れたのか、それとももともと作られていなかったのかわからない。店主の妻が気の毒がって眼帯をつけて店頭に並べたが、買い手がつかないまま店主の妻は旅立ってしまった。
 気がつくと、長谷部は駅前通りをひとり歩いていた。傍らにはあの黒いテディベア、ミツタダをしっかりと抱いて。
 おいくらでしょうか、と店主に聞いた記憶がある。店主は、もう年だからこの店も、ぬいぐるみたちも片付けようと思っていた。良いもらい手がいるなら連れて帰ってほしい。そのようなことを言って、店主はかたくなに珈琲の値段以上を受け取ってくれなかった。千円を渡し、釣り銭をきっちり返された。十円玉にギザ十が入っていた。そんな些細なことまで覚えている。
 しかし、どうやってこの駅前通りまで歩いてきたのかが、今もさっぱり思い出せないのだ。そういえば喫茶店の名前も、店主の声も、顔さえも。
 鼻の奥には、店で飲んだ深い珈琲の香りが残っているというのに。


 明かりを消し、まだ湿り気の残る髪を枕に沈めると腹の底からため息が出た。眠る前の癖みたいなもので、意味はない。意味はないが、なんだかとてもさみしくなる癖だ。
「……今日は姿を見かけなかったな」
 何の気なく出した声は、思ったよりも掠れていた。小さな咳払いをして、またため息が出た。
「昼休みも食堂にいなかった。いつも食堂まで降りて来て弁当を食べているくせに、今日はどこに行ってたんだ。外回りが長引いたのか」
 慣れてきた目で黒い姿をなぞる。輪郭は夜にすっかり溶けてぼんやりとしている。確かめるように頬を撫でる。あたたかな毛に指が埋まる。
「明日は、会えるだろうか」
 指を曲げると、ミツタダの頭がこくりと前に傾いた。手を離すと元の姿勢にゆっくり持ち上がる。
「……そうか。おまえもそう思うか」
 頭を撫で、眼帯をなぞり、毛並みを整えてやる。
 それから窓の方を向かせて、代わりにティッシュ箱を引き寄せる。この先の自分をミツタダに見られるのは居心地が悪い。ミツタダだっていい気はしないだろう。自分と同じ響きを持つ名を何度も何度もつぶやかれるのは。


「長谷部くん、お疲れ様」
 昼休みにPCをシャットダウンしていると、給湯室の方から声が近づいてきた。
「長船か」
「顔暗いね。何かあった? PC調子悪い?」
「この間のおまえじゃあるまいし。別に何もない」
「そう? ねえ、長谷部くんお昼まだだろ」
 長船は自分の首から下げていたネームをくるくる巻き取って胸ポケットに入れ、次いで長谷部の首のネームを奪おうと手をかけた。
「やめろ、何する」
「外に食べに行こうよ。隣の定食屋さんの今日のランチ、焼き鮭定食。今日はサービスのほうじ茶プリン付き」
「悪いが他を当たってくれ。昼は今朝コンビニで買ってきている」
「それ夜食べれば良いじゃないか。行こうよ、ほうじ茶プリン好きだろ」
「だめだ。午後一番で大事な会議がある。会議前には外出しない主義だ」
 長谷部は奪われかけのネームを引ったくり、デスクの上にコンビニ袋を出す。ガシャンとコーヒーの缶が無機質な音を立てた。
「またカロリーメイト食べて。こんなお菓子で栄養取れてると思ったら大間違いだからね」
「お菓子とは失礼な。バランス栄養食だぞ。大塚製薬に謝れ」
「別に侮辱してないさ。基本的な栄養素が揃ってこそのバランスだろ。大塚製薬だってカロリーメイトで生きられるとは言ってない」
「そんなものは屁理屈だ」
「屁理屈はどっちだよ。わかった。今夜ご飯行こう。野菜料理の店。ね。決まり」
「今日は荷物が来るから行けない。生ものだから今日受け取らなきゃいけないんだ」
「何時?」
「18時から20時」

「オーケー。じゃあ長谷部くんの家で食べよう。今日は残業できないね? 荷物来るから出かけられないもんね?」
「いや、おい待て、おい、長船!」
「鍋するよ、鍋! 野菜食べようね! 何食べたいか考えておいてね!」
 エレベーターに走り行く光忠の背を見送り、長谷部はとりあえず缶コーヒーを開けた。


「長谷部くん、野菜嫌いなのかと思ってたよ」
 光忠は煮えたぎる鍋から長谷部の分をたっぷり取り分けると、目の前にゴトリと置いた。白菜から湯気が絶え間なく沸いている。
「さあ、食べよう。いただきまーす」
「いただきます……」
 光忠は定時に会社を飛び出すと、カセットコンロやら鍋やら食材やらを抱えて長谷部の部屋にやってきた。
 かたや長谷部は十七時半までデスクにいた。家に着いてコートを脱ぐ前にチャイムが鳴ったのでミツタダを布団の中に突っ込むのが精一杯だった。不自然な膨らみが気になって、箸を運びながらもチラチラと視線をやる。
 布団から視線を戻すと光忠とバッチリ目が合った。慌てて適当に口を開く。
「別に野菜嫌いじゃない。作るのにも食べるのにも時間がかかるから面倒なだけだ」
「じゃあ今日はたくさん食べようね。おかわりあるから、ほら」
「待て。勝手に椀を奪うな。まだ食べ切ってない」
 長谷部が勢いよく食べ始めると、光忠はやけどしないでよ、とのぞき込んでくる。その矢先、中がまだ熱かった豆腐に仰け反った長谷部を見て慌てて水を寄越してきた。
 受け取った水をあおり、ひりつく舌を口の中で遊ばせる。歯に触れた先がチリチリとした。
「気をつけてよ、あぶなっかしいな」
「……長船」
「なに?」
 水をもう一口飲み込んで、グラスを持ったまま視線を伏せる。煮えすぎのコンロの火を光忠が絞った。
「お前、なんで俺にかまうんだ」
「え? 何でって……あっつ、湯気!」
 湯気をまともに食らった手首をぶんぶん振り回す。その様を、長谷部は伏せた視線の端で見た。
「何でかまうかって……そりゃ、我が社の営業エースが野菜不足で倒れたら困るからさ」
「ふうん」
「商売道具の舌をやけどされたら困るから心配するし」
「……それだけか?」
 問うてから、長谷部は、しまったと口を閉ざした。我ながら思い切った物言いだった。それ以外に何があると言うんだ、と視線を再び落とす。
「え、それだけ……って?」
「いや、なんでもない」
「他に何、」
 折良くというか折悪くというか、とにかくそのタイミングでインターホンが鳴り響いたのは長谷部にとって幸いだった。
「すまん。食べててくれ」
 長谷部は箸を置いて、せっかちな二度目のインターホンに向かって返事をした。光忠はしばらく黙っていたが、長谷部が玄関で応対している声を聞きながら鍋をつつきはじめた。
 玄関から戻り、冷えきった箱をシンクに置いた長谷部の方に光忠は首を伸ばした。長谷部は問われる前に口を開く。
「実家から。長船、明太子食べられるか?」
「いいの? 嬉しいなあ、長谷部くん福岡だっけ」
「ああ。この時期に毎年送って来るんだ。よかったら持って帰れ」
「今食べられないの?」
「無理。カチンコチンだからまず出せない。持って帰って家で食べたほうがいい」
 発泡スチロールのガムテープを剥がし、入っていた
パックをシンクの上に並べて再び席に着く。やや冷めかけた椀の中身を食べ終えて、お玉を片手に鍋をのぞき込んだ。
「さっきの話だけど」
「何だ、さっきって」
「長谷部くんが言っただろ。それだけか、って」
「……そんなこと言ったか?」
「言ったよ」
「もう忘れた。あ、さっき俺椎茸食べてないな。二個いいか?」
「好きなだけ食べてよ。ねえ、長谷部く」
「あっつ!」
 長谷部が叫び、お玉が宙を舞った。お玉から滑り落ちた食材が跳ね返って長谷部の手の甲を直撃したのだ。派手にしぶきをまき散らし、お玉は布団に着地した。
「長谷部くん早く冷やして!」
 光忠は長谷部の手を掴んで台所まで走り、流水の下に突っ込ませた。冬の冷たい水が二人分の手をキンキンに冷やしていく。
 熱さの次には冷えすぎの痛みが襲ってくる。だが、違う意味で、握られている手が熱かった。
「もういいんじゃないか」
「だめだよ。しばらく冷やさないと」
「名案だ。明太子で冷やせばいい。溶けるからすぐ食えるぞ」
「長谷部くんがそれでいいならかまわないけど……あ、コンロの火止めてくるね」
 光忠が離れ、ほっと安堵したのもつかの間、長谷部は慌てて振り向いた。が、遅かった。長谷部が振り向くのと、光忠が汚れた布団を剥いで、隠した物を見つけるのとはほぼ同時だった。
「これ、テディベア? 長谷部くんこういうの好きなんだ?」
「違う、違うって、それはあの……親戚、親戚の子どもが」
「ごまかさなくていいよ。好きな物は人それぞれだし。珍しいね、この子眼帯してる。目の色も僕と同じだ。親近感沸いちゃうなあ。これ、名前? ブランド? M、i……」
「うわあ、うわーっ!」
「こら! まだ冷やしてなきゃだめだろ!」
 一喝されて思わず体が引っ込み、手を冷やし直す。その間にも光忠の目はテディベアの足裏に刻まれたアルファベットをたどる。長谷部はがっくり肩を落として天を仰いだ。
「この子……ミツタダっていうのかい?」
「……偶然だ、偶然」
 絞り出すような声にはこれっぽっちも真実味がなかった。幼稚園児だってもっとまともな嘘をつく。
「偶然……偶然、かな」
 しかし、光忠の声はなぜか真剣だった。
「…………」
「ねえ、長谷部くん」
 次いで問われる言葉を想像して目が回りそうになる。たたきつけてくる流水とともに、このままいなくなってしまいたかった。
 覚悟を決めて光忠の方を向く。光忠は長谷部の予想を大きく外れ、なんともいえない不思議な表情を浮かべていた。
「……これ、どこで買ったの?」


 明太子で手の甲を冷やしながら長谷部が一通り話した後、光忠が話し始めたのは長谷部とそっくりな思い出話だった。
 出張先の九州で帰り際に立ち寄った喫茶店の話。妻に先立たれた老店主と残されたテディベアの話。煤色の毛並みに藤色の瞳、金色のリボンを纏ったテディベアに一目惚れをした話。足に名前を纏わせた話。そして、その喫茶店の名も、店主の姿も覚えていない話。
「これってさあ、偶然だと思う?」
「……どうだろうな」
「今度うちに来てよ。ハセベくんに会ってほしい。君と、君のミツタダくんに」
「いつか機会があればな」
 長谷部は明太子をテーブルにおいて、シーツの上にミツタダを乗せると特別愛着があるわけではないという顔で雑にバフバフと撫でた。その手を光忠の手が覆う。
「もう一つ聞いていい?」
「今度は何だ」
「どうして『ミツタダ』にしたの」
「……それは」
「僕は、」
 光忠が、長谷部の手ごとミツタダを撫でる。そして、ゆっくりミツタダを持ち上げると、長谷部の膝の上に静かに下ろした。
「僕は、君が好きだから、ハセベくんにしたんだけど」


 先の問いに長谷部がなんと答えたか、長谷部自身も、光忠も覚えていない。あの喫茶店での出来事と同じくらいぼんやりとしている。
 確かなのはそれが光忠と長谷部にとって、一番好ましい答えだったことくらいだ。
「長船、悪いが……ミツタダを、伏せてくれないか」
「ん? 僕じゃなくてミツタダくん?」
「……こういうことをミツタダに見られているのは……なんというか、具合が悪い」
「オーケー。ミツタダくん、月を見ていてね。それと長谷部くん」
「何だ、……っ、あ」
「僕のことも、光忠と呼んで」


おわり



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