鹿住栄枝。言わずと知れた、稀代の天才である。
彼女は様々な分野に精通し、様々な分野で名を世に知らしめているが、彼女について民衆が知っているのは名前と、まだ少女だということだけだった。
「エーシ、珈琲淹れたぞ」
「ありがとう、イブ。そこに、おいといて」
静かに、ぽそぽそと、消え入りそうな声で喋る彼女の名前は栄枝。読みは『さかえ』だが、俺たちはなぜか『エーシ』と呼んでいる。それに合わせて、俺は『イブ』と呼ばれていた。繊維の『い』に武士の『ぶ』。そう書いて、本来ならば『これたけ』と読む。『巴田維武』それが俺の名前だ。
「そこ、って……どこだよ」
指し示された場所には、論文やら書籍やらが雑多に広がっていた。珈琲カップをのせたお盆片手に幾つかつまみ上げると、俺には到底理解できそうもないタイトルばかりだった。
「その……へん?」
「首を傾げるな。……あー、もう! この辺は適当に片付けて良いんだな?」
声なく首肯だけで返ってきた答えに、俺は手早く幾つかの論文をどけた。
小さな音を立てて、空いた机上のスペースにお盆を置く。その上には二人分のカップと、間にミルクの入った陶器と角砂糖が詰まった瓶がある。
エーシは無作為に瓶から数個の角砂糖を放り込むと、ミルクを一回し、二回し、三回し、四回し、五回し……そこで止めた。
銀の子匙でくるくるとかき回し、両手で包むようにカップを持ち上げて一口啜る。
「……おいしい」
「その激甘珈琲がか?」
「糖分は、大事」
「太るぞ」
「それでも、摂る。だって、人の体で一番大食いなの、頭だから」
「頭?」
俺が話に興味を示したのが嬉しいのか、エーシはにこりと笑う。
「そう。でも、脳は糖分……ブドウ糖しか食べない」
「ブドウ糖? それがこんなかに入ってるのか?」
瓶、エーシと視線を巡らせると、彼女はふるふると首を振った。
「……入ってない。基本的には炭水化物から摂取する。最近は、固めて角砂糖みたいにしたのも売ってる」
「へぇ……っておい、まて。じゃあ激甘珈琲と脳の大食いは関係ないんじゃないか?」
すると、エーシは小さく頷く。
「この話はなんだったんだよ……」
呟いてみても、彼女は何が嬉しいのかにこにこと笑うだけだ。いつものことといえば、それまでだが。
「……ざつだん?」
「そーかい」
珈琲を飲み干し、ユニークなデザインの掛け時計を見る。そろそろ出掛ける時間だ。
「ちょっと出掛けてくる」
「ごはん……は?」
「作ってある。掃除は明日やるからな。ったく、俺はお前の使用人じゃないんだぜ?」
「わかってる。でも、そういう契約」
「そーだったな」
ため息混じりに呟きながら、家の戸締まりを確認していく。窓はすべて防犯ガラスで、鍵は二重だ。玄関に至っては指紋、声紋、虹彩、パスワード、パターンロックを経て、最後に二重のキーロックという厳重さだ。
それもこれも、すべては彼女が原因である。ひとたび研究に没頭すると、他のことは目に入らないし聞こえなくなるらしい。実際、以前泥棒にはいられたことがあるらしく、その時も研究に没頭していた彼女は気がつかなかったらしい。
「それじゃ、行ってくる」
「行ってらっしゃい」
お決まりの挨拶を交わして、厳重なセキュリティの玄関をあとにした。
家に帰る頃には、辺りはすっかり暗くなっていた。
七つのロックを抜けて玄関に滑り込む。手に大きな買い物袋を提げていたので、解錠だけでも一苦労だ。
「ただいま」
この時間は帰宅しても大抵返事がない。眠っているか、研究しているかのどちらかだからだ。
部屋を覗くと、エーシは机に向かっていた。ということは何か俺には理解できない研究をしているのだろう。
こうなると、彼女は一言も口を利かない。俺も話しかけることはしない。これは二人の暗黙の了解だった。
彼女は机に向かう。俺はその後ろで暇を潰す。俺とエーシは一応恋人なのだが、だからといってそのスタンスが崩れることはない。
一緒にいても、特に会話をしない。そういう話を友人にすると、決まって変だと言われる。でも俺は、そういうものだと思っていた。だって俺たちは契約で恋人になったのだから。
契約。それはお互いを縛る鎖。互いの望みを編み込んだ鉄鎖。
彼女は俺に、身の回りのことを望み、それを契約とした。
俺は彼女に、彼女自身を望み、それを契約とした。
契約で縛られた恋人。そこに愛はない。でも俺は一緒にいられるだけでよかった。
長い間切っていないせいで、無作為に伸びた髪。邪魔なのだろう、彼女はそれを度々かきあげている。俺はその姿が好きだ。
たぶん、エーシはそれほど見た目のいい人ではない。と思う。けれど俺には、彼女が誰よりもかわいく見える。これは惚れているせいだろうか。
「……」
彼女の髪に手を伸ばす。触れるか触れないかのところで引っ込める。
契約の時は、一緒にいられるだけで良いと思っていたのに……今は、欲が出てきていた。
エーシが研究に費やす時間を、俺に向けてほしい。そう思っていた。
「イブ?」
「どうした?」
一人彼女の後ろで悶々としていると、不意に彼女が振り返った。焦ったが、それは微笑の中に押し隠す。
「寝る」
「そうか、じゃあホットミルクだな」
目覚めは紅茶、ティータイムは珈琲、就寝前はホットミルク。彼女は決まってこれだ。
彼女のためのドリンクをつくろうと腰を浮かせたところで、俺は彼女に引き留められた。
「今日は、いらない」
「どうして?」
「どうしても。それより、今日は一緒に寝るの」
その言葉に、俺が期待するような意味は込められていない。わかってはいるのに、俺は固まってしまった。
「イブは、安眠枕。寝るときに一緒にいると夢見が良い」
固まったままの俺をそっとベッドに押し倒すと、彼女は傍らで丸くなった。
「どこにもいかないでね」
それは寝ている間に、という意味だったのだろう。だがそれでも、俺はこう言わずにいられなかった。
「……なら、もう少し俺に構えよ」
今度こそ彼女の長い髪をそっと撫でて、既に寝息を立て始めているエーシの額に唇を落とした。
――おやすみ、よい夢を。